ジーザスはスーパースター

何かをつくる日記

糸井重里のこと

糸井重里中井貴一とテレビで喋ってて「皆夢が設計図かなにかだと思ってる。空を飛びたいと思っても飛行機の設計図が書けるわけがない。それより、何故空を飛びたいと思ったのかを考えた方がいい」と言っていた。自分の心が今立ってる所を知ったほうがほんとうは広がると。糸井さんの仕事の98%はそうなんだけどそうじゃなくてやっぱりそうなんだよなみたいな所を言い抜いてるだけなんじゃないか感あってどうも素直に聞けないんだけど、そのとおりだなぁとも思う。

 

自分が何を好きかどうしたいか考えず、自分の中心を放ったらかしにして日々の安全だけ守っていると、当然心のなかに見捨てられた渇いた部分ができてくる。自信がなかったり、社会から外れる不安があったり、単に面倒臭かったり、親や友達を愛さねばならないと思い込んでいたり、下手をすると我慢することが大人になることだと思い込んだりして放っておいているから、その渇きを見るのが怖くなっていく。すると、自分の中の見ないようにしている不安や不満を癒したり、無くしたりくれそうなものにうっかり惹かれたりする。本当は渇いて疲れきってるんだから当たり前のことだ。しかしその事を認めずに妙なプライドを守りながら近づいても、何故惹かれているのかわからないままどう手を出したらいいか立ち往生することになる。憧れ焦がれながら手を出せないものはその気持ちが強ければ強いほど自分の身を焼く憎しみになる。でも希望は感じてるから離れることもできず、グログロととりつくことになる。愛が地獄の元になる。

 

好きなったものは、やりたいことは、必ず自分の心を写している。オタク界隈の面倒な所はそれを一緒くたに「萌え」っていうオブラートに包んじゃう所がやっかいな所だが、それも社会の生み出した優しさかなぁとも思う。

私は我慢することじゃなくて、好きなことや夢が乾いた心のSOSでなく、自分を自由にするための扉にしていく事が、与えられる子どもと与える側の大人の違いじゃないかなぁと思う。